1969年 日本初の「人工腎臓装置」の開発に成功
医療器メーカーとしての第一歩
腎臓病治療の研究は、海外ではおよそ100年の歴史がありますが、臨床応用の段階でさまざまな課題が生じ、特に腎不全はなす術のない病気とみなされてきました。ところが1950年、朝鮮戦争の野戦病院で行われた「人工透析」によって、死亡率が90%から50%に低下したという結果に世界の注目が集まり、人工透析は一躍、急性腎不全の画期的治療法として位置付けられました。
ちょうどその頃、日機装には、ポンプ事業の取引先であった米国ミルトン・ロイ社(以下、MR社)から人工腎臓装置「モデルA」の販売代理依頼が舞い込みます。数年前に人工心臓の開発を手がけていた当社は、“医学と工学をつなぐ”人工臓器分野への関心を高めていたため、これを大きなチャンスと捉えます。そして、MR社と人工腎臓装置の日本総代理店契約を結ぶことで、メディカル事業への本格参入に乗り出しました。
輸入から国産へ――患者様の生命を第一として
日本の透析治療の歴史は、1967年、日機装が広島大学、新潟大学の医学部付属病院にMR社の人工腎臓装置を納入したところから始まります。その後の製品の売れ行きは上々でしたが、故障時の即応が難しいという輸入品ならではの問題点を抱えていました。
患者様の生命を第一と考える当社は、装置の安全性・信頼性向上をめざして国産化を決断。MR社と技術提携を結び、1969年には、部品一つから自社開発した国産第1号の人工腎臓装置「モデルBN」が厚生省(当時)の認可を取得します。この1号機は新潟県の信楽園病院に納入されましたが、それからわずか1カ月足らずで9台を受注し、人工腎臓装置の国産化は順調なスタートを切りました。また、このモデルBNは故障も少なく、医療現場からの高い評価を得ました。
透析装置のパイオニアとして、重みを増す社会的責任
人工腎臓装置の国産化を成し遂げた日機装の創業者・音桂二郎には、忘れられない出来事がありました。透析治療の現場を初めて見学した時のこと、急性腎不全で余命数日とされる20代半ばの青年がベッドに横たわっていました。そして、傍らの両親は医師を拝むとともに、人工腎臓装置の開発者として紹介された音に対しても手を合わせたというのです。
この経験を通じて、音は、医療に関わることの責任の重さをあらためて認識し、当社内だけではなく、現場で装置を扱う医療従事者へのトレーニングも開始します。また後年、静岡工場(現 技術開発研究所)を設立した際には、研修センターを併設し、医療従事者への教育やサポートを通じて、医療現場との連携に努めました。